まだまだ地には足が着かない。
世界の新たな変革の中で、東京というローラーコースターからの景色さながらの都市空間の中で、ひとは歓喜し、怒り、憂い、愛し合い、毎日を生きている。

街を歩く。

ぼくらは信号を守り、標識や地図を頼りにしっかりと歩道を歩く。自らのからだを他人の決まり事に委ねて歩くのだ。これが間違ったことであるとか正しいことであるとか言いたいんじゃなくて、ぼくらの生きる世界に、このような前提があるということ、ただそれだけ。



ぼくらは皆、自らの命を生により授かった、たったひとつのいのち達。自らで考え、自らの足で、自らの道を歩くために生きている。本当にこのことだけでも精一杯なのに、ぼくらの生きるこの世界はもっと複雑で、前述の"誰かが敷いた道"を歩くことを執拗に強要する。ほんとうか?


本当はぼくらが道なき道を歩むことを恐れてきたのだけなのだと思う。


戸惑い、慌てふためく世界を前に、自らを重ねてそのように感じている。そのように考えれたならば、現代の社会は当然の結果に帰したまでだと思う。
歩くことよりも、歩く意味や目的に意識がいってしまう僕たちは、恥ずかしいくらいの優秀な現代人。あの道やこの道を歩く意味や価値は、豊かな人類の英知なるデータベースによって客観的に定義され、その恩恵を受ける僕たちは知ったかのように一方的に見向きもしない。そして、それらは潜在的であるからこそ甘く、恐ろしい。

実存的に生きるほかないことを受諾した上で、調和を奏でるために自らの生きる道を歩きたい。まあせっかく生きてるんだし、そうすることでしか見る事のできない世界を信じてみたい。

歩くことって本来的にはもっと躍動的で、生きることと同じくらい美しい行為なのだと思う。