ぼくが何かを口にしたのならば、同時にそれは、そのコトバ以外の口にされ得なかった幾多の可能性を殺してしまうことになる。

この発想は長らく、自分史の中でも、全くの偉大なる発明であり、収穫であった。

しかし、これらは今のぼくにとって、ある種の病理のようなものに他ならない。

治癒する目的に生まれる有効な薬物も、使用法を誤るものならば、時に自らを死に至らしめるものなのか。

そうであるならば毒物という逆の存在もまた然り、とはいえないだろうか。

みずからにとって、求め得ぬことが徳となる前に、失うことへの恐れが自らを覆い隠しきってしまう前に。

冷静に、精密に、そう、、まさに狂気にも似た情動を抱えて、お前はその足を前へと踏み出すのだ。

お前にのみ出来ること。
そして、そのお前が望み、成すべきこと全ては、そのひとつの挙動のみであるのだから。

意味や答えなどはそもそもある訳も無く、ぼくの中に絶えず巻き起こる何らかの現象を、取り出し、現前に表すという純粋な行為。行為。行為。

有効だとか、機能的だとか、そのようなものとは別の起源的なプロセスを辿る旅。ぼくが、ぼくでは無くなってしまい、そしてまた、限りなくぼくという存在を感じ得る時間。

すべての距離、時間、文化、物理的制約を超えたその先、、狂気と呼ぼうが差し支えない。

しかし、ぼくは志向するのであろう、世界が艶かしく揺らいでいくあの瞬間を。