最近、ボディバランスというコトバについて、よくかんがえる。

ぼくは、普段から自身の回りに存在するモノやコトにおいて、一見それが如何にバランスを欠いたカタチに映ったとしても、諸々は然るべきリズムとコンポジションにより成り立っている、という考えをもつ。
このボディバランスというコトバは、具体的かつ、特定の関係性における調和の取り方、というふうなイメージなのだが、ぼくの場合、かなりそのまんまで自分の感官を含む身体をイメージしながら、このコトバと向き合う。

ぼくが日々を生きる上で、とてもではないが、身の回りに起こりうる全て事象を自らの意思決定のもと、ないしは、他者との合意のもとにすすめるできない。
むしろ、ぼくたちは実際には、ほぼ無意識の判断や動作や言動のもとに生かされている。
概して、モノづくりに携わる人間ほど、自らの身体感覚を自己判断のものさしとしているものなのだが、しかし、その我々の身体の所在というのも、様々な風土、社会的、またはその歴史的背景などにより規定されるものだ。

そこで、今一度思う。真の意味で”モノをつくる”とは何なのか。
真に、"生きる"とはどういうことなのか?

ぼくにとって、それは行為ではなく、態度そのもの。
そこに宿り、育まれるボディバランスの延長上に、モノづくりが存在する。
静と動、対象と空間、伝統と革新、デザインとアート。。。でざいんとあーと。。

全くなにかを”創造する”ということは、なにかを”ぶち壊す”という決定的な矛盾を孕むが、それ無くしては成立し得ない。
自らの信じる道で、モノ作りにおけるトレンドやセオリーを超えて、時代や国境を超えて、瞬間的に永遠を掴み出すためには、まだまだまだまだまだまだ長い時間を要するようだ。。